着物の裏地に、ふと目を奪われたことがあります。
誰にも見えないはずのところに、そっと咲くような柄。
それはまるで、持ち主の心の奥にある静かな美しさが、そこだけに表れているようで。
そんなふうに「表に出ない部分」に手をかける感性に、私は昔からとても惹かれてきました。
日本の美には、そうした“見えないもの”へのまなざしが、静かに息づいている気がするのです。
包む、添える、整える——見えない部分に宿るやさしさ
和菓子の包み紙を丁寧にたたむ手。
お弁当の中身が崩れないように、仕切りをそっと添える心遣い。
お料理の器の裏側まで、布巾でふきあげるような所作。
どれも、目立つわけではないけれど、それがあるだけで空気がやわらかくなるような、そんな美しさがあります。
それは、「誰かに見せるため」ではなくて、「自分が納得できる形にしておきたい」という、静かな意志の表れ。
人の目から隠れていても、自分の目だけは知っている。
だからこそ、そういう“見えないところ”に心を込められる人に、私はいつも深く惹かれます。
誰かのためじゃなく、私のために整える
以前、仕事で慌ただしくしていたときに、朝ごはんを一品だけでも器にきちんと盛りつけてみようと思った日がありました。
誰かに見せるわけでもないのに、思いがけずそのひと皿が心を落ち着かせてくれて。
それ以来、たとえ自分ひとりの食卓でも、器の向きや色のバランスを少しだけ気にかけるようになりました。
“誰も見ていないからこそ、自分のために丁寧でいる”という感覚が、私には心地よかったのだと思います。
そうやって内側に重ねられていく小さな選択が、きっとその人らしさや、生き方としてにじみ出てくるのではないでしょうか。
完璧じゃなくていい。でも、心をかける
見えないところにまで心をかける——と聞くと、なんだか完璧主義のように感じられるかもしれません。
でも私はそうではなくて、“手をかけることで、自分との距離が近づく”感覚を大切にしています。
たとえば、外出前に玄関をそっと整えるとき。
仕事で疲れた夜に、誰も見ない洗面所の棚をきれいに並べ直すとき。
そういう何気ない動作が、どこかで私自身を整えてくれている。
それは“丁寧に見せたい”のではなく、“丁寧にありたい”という気持ち。
暮らしのどこかでバタついていた心が、少しずつ静かになっていくのを感じます。
美しさは、目に見えないところにほど、ひそんでいる
華やかなものを求める気持ちもあるけれど、私はやっぱり「誰かに見せない部分にまで心を配る人」にこそ、本当の美しさがあると思っています。
それは、着物の裏地だったり、食器棚の奥の整えられた並びだったり。
「どうせ見えないから」ではなく、「自分が気づいているから」整えるという在り方。
それはきっと、“美しく生きる”ということの、ひとつのかたち。
誰のためでもなく、自分の目と、心に嘘をつかないという、小さな誠実さ。
それこそが、日本の美意識の根底にあるものではないかと感じています。