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“見立て”の美学。ありふれたものに、美を見出す力

庭の小さな石を、山に見立てる。
茶碗の内側に、夜空の広がりを感じる。
そんな“見立て”の文化は、日本人の美意識のひとつとして、昔から大切にされてきました。

それは、実際に「何に見えるか」よりも、「どう感じるか」を受け取る感性の話。
そしてそれは今の暮らしの中にも、さりげなく息づいているように思います。

見立てとは「世界の解釈の仕方」

見立てという言葉には「〇〇に見えるように演出する」という意味があります。
でも、日本文化における見立ては、ただの装飾やトリックではありません。

たとえば、枯山水の庭に敷かれた砂利は、波を表現し、置かれた石は、山や島を意味することがあります。
けれど、それを「山だ」と決めつけなくてもよくて、見る人それぞれが、自分の中に景色を思い描く余白がある。
この「見る側にゆだねる美しさ」こそ、見立ての本質かもしれません。

暮らしの中の“転用するセンス”

ふだん私たちがしている“転用”にも、見立ての美しさは息づいています。
たとえば、花瓶ではなく小さなガラス瓶に一輪の花を挿す。
たとえば、和菓子の木箱をアクセサリートレーに使ってみる。
もともとその用途で作られたものではなくても、「こう使ったら素敵かも」と思う瞬間がある。

それは、単なる代用ではなく、「ものに対して、自分なりの意味や居場所を見出す」という行為。
そこに、ささやかな美意識が宿っているのだと思います。

私はときどき、使い道が決まっていない器や箱をあえて手に取ります。
使いながら意味を決めていくことが、ちょっとした遊びのようで、暮らしに彩りをくれるからです。

高価なものより、「意味が生まれたもの」に惹かれる

歳を重ねるにつれて、ものを見る目が少しずつ変わってきました。
以前は「ちゃんとした用途」や「使い勝手のよさ」を優先していたけれど、今は「自分にとって意味のあるものかどうか」で選ぶことが増えました。

たとえ安価で小さな器でも、毎朝その器でヨーグルトを食べていると、なんとなく“その時間の象徴”のように思えてくる。
そういう「使っていくうちに意味が生まれるもの」が、気づけば一番近くに置かれていたりします。

見立ては、まさにそういう感覚。
“与えられた役割”ではなく、“自分との関係の中で意味を持つ”こと。
そしてその過程に、静かな美しさが宿っているような気がします。

モノを見る目が変われば、世界が変わる

同じ風景を見ても、同じモノを手にしても、
「どう見えるか」は、その人の心の状態によって変わります。
それが、見立ての面白さであり、奥深さ。

つまり、見立てとは、“自分の目で世界を再編集する力”なのだと思います。
それは、何かを足さなくても、暮らしを豊かにする方法。
そして、自分だけの感覚を大切にできる、静かな自己表現でもあります。

高価な家具や新しい道具がなくても、今あるモノに目を留めて、意味を見出すだけで、暮らしはほんの少し変わって見える。
それが、日本の美意識の魅力のひとつだと思うのです。