夜、窓を開けて、月を探す。
何をするでもなく、ただ見上げるだけの時間が、秋には似合うと思います。
季節の行事としての「十五夜」は、どこか遠いものに感じていたけれど、いつからか私は、“月を見ること”そのものが、心を整える習慣になってきました。
月を見るだけでいい、という余白
行事というと、つい何か「やらなければ」と思ってしまうけれど、十五夜は、ただ空を見上げるだけで成立するのが好きです。
団子もススキもなくていい。
ベランダに出て、少し肌寒くなってきた夜の風を感じながら、月のかたちや色を、ぼんやり眺めているだけで、なぜか気持ちが静かになっていきます。
何もしないで月を見る——
それだけで心が整うことってあるんだなと思えるのは、きっと、この時季ならではの空気のせいかもしれません。
子どもの頃、祖母と見上げた月
十五夜といえば、私は祖母と縁側で見た月を思い出します。
「ほら、まんまるだよ」
そう言って祖母が団子を差し出してくれて、「ウサギ見える?」なんて聞きながら、ふたりでただ月を眺めていた夜。
あの時間には、特別なことは何ひとつなかったけれど、なぜかいまも、心の奥にやわらかく残っています。
大人になってから、あの月をひとりで見るようになって、行事ではなく、記憶と静かにつながる時間になった気がしています。
満ち欠けのリズムに、ほっとする
満月の夜は、やっぱりきれいです。
でも、欠けていく月や、ほんのり細い三日月も、それぞれに味わいがあります。
満ちては欠け、欠けては満ちる。
そんな当たり前のリズムを空に見ていると、「今はまだ途中でもいいのかもしれない」と思えることがあります。
仕事や暮らしのあれこれに追われていると、つい結果や完成を急いでしまうけれど、月のように、静かに移り変わっていく過程もまた、美しい。
そう思えることが、秋の月のやさしさだと思います。
“ただ見上げる”ことが、いちばん自然な行事
最近は、スマートフォンで「今日は満月」と教えてくれることもあるけれど、私はできるだけ、自分の目で月を探すようにしています。
雲の隙間からちらりと顔を出す夜もあれば、思いがけない場所に浮かんでいることもあって。
そういう“探す過程”も含めて、行事というより“習慣”に近い時間として、暮らしの中に根づいてきました。
月を見るだけで、誰かを思い出す。
月を見るだけで、少し気持ちを立て直せる。
それは、とてもささやかだけど、確かなことです。
月を見上げる夜に、静かに季節を受け取る
十五夜だから、と特別に何かを用意する必要はなくて、ただ、月を見ることが自分にとっての“秋の受け取り方”になれば、それで十分だと思います。
きちんと整えられた行事ではなく、暮らしのなかに紛れるようにある、小さな時間の積み重ね。
今年の十五夜も、あのときの祖母の声を思い出しながら、私はまた、静かに月を見上げようと思います。