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お盆の“迎え火”に手を合わせる理由

毎年、夏が近づくと、ふと祖母の家の縁側を思い出します。
風鈴の音。夕立の匂い。台所から聞こえる揚げ物の音。
そのすべてが、お盆の風景と重なっているような気がします。

小さな頃は、ただなんとなくしていた“迎え火”。
大人になった今、その意味を少しずつ考えるようになりました。

「火を焚く」という、静かな準備

迎え火は、ご先祖さまが帰ってこられるように、道しるべとして焚くもの。
道ばたや門の前で、小さな火を灯す——
それだけの行為なのに、その場には、どこか張りつめたような、でもやさしい空気が漂います。

火を見つめながら黙って立っていると、言葉では思い出せない記憶の断片が、ぽつぽつと浮かんできます。
祖母と並んで座った食卓。
祖父が新聞を読みながら口にした、冗談とも本気ともつかない言葉。
私は、火を焚くという行為そのものが、“心の準備”になっているのだと思います。

形式ではなく、「思い出すこと」

お盆という行事は、地域や家庭によって形もやり方もさまざまです。
でも大切なのは、形式をきっちり守ることではなく、その人のことを“思い出す時間”をちゃんと持つことなんじゃないかと感じています。

遠く離れた今の暮らしの中では、仏壇もないし、お墓にも簡単には行けないけれど、心のなかで「おかえりなさい」と思うことはできる。
夏の夕方、ベランダで一人静かに手を合わせるだけでも、どこかでつながっている気がします。

たとえば、あの人ならこの麦茶の淹れ方、きっと褒めてくれたなとか。
たとえば、今の自分を見たら、何て言うだろうか、とか。

そうやって、記憶といまの自分が対話する——
迎え火は、そんな時間なのだと思います。

祖母の表情が、静かに残っている

私の祖母は、迎え火の準備をするとき、なぜかいつも無言で、でもどこか楽しそうでした。
その表情の意味を深く考えたこともなかったけれど、今なら少しだけ、わかる気がします。

季節の行事は、時間の流れに印をつけるようなもの。
そして、お盆の迎え火は、亡き人との距離を一度だけ、少しだけ近づけるためのもの。
その所作が静かに自分の中に残っていることが、なによりの“継承”なのかもしれません。

いまの暮らしの中に、迎え火の気配を

毎年お盆の時期になると、ほんの少しだけ部屋の灯りを落として、昔ながらの香りのする線香を焚くようにしています。
部屋の中に漂うその香りと、外の夕暮れの光が混ざると、なんともいえない静けさに包まれます。

それだけで、「またこの季節が来たな」と思える。
誰かを思い出す余白が、日々の暮らしに差し込まれる。
そういう“行事の形ではない、心の迎え火”があってもいい。

行事だからやるのではなく、大切な人ともう一度つながるきっかけとして残していく。
お盆の迎え火は、そんなふうに、私のなかの“ひとつの灯り”として、これからも静かに灯していきたいと思っています。